防災・減災への指針 一人一話

2013年11月21日
応援自治体職員の声 ――三重県――
三重県職員 県土整備部 県土整備総務課 人材開発班 主事
木谷 勇介さん
三重県職員 防災対策部 災害対策課 防災訓練班 専門主査
伊藤 浩明さん

東日本大震災支援プロジェクトという新組織

(聞き手)
 発災当時の所属部署と今現在の所属部署をお話ししてください。

(木谷様)
 発災当時は、三重県の政策部の市町行財政室におりました。その後年度が変わって、5月に県で当時の防災危機管理部に、東日本大震災支援プロジェクトという組織ができまして、そこを兼務することになりました。市町行財政室というのはもともと、県内の市町との繋がりの仕事をしている部署でしたので、そこから市町職員の被災地派遣の調整のような仕事を始めたということです。

(伊藤様)
 発災当時は、防災危機管理部の地震対策室にいまして、主な業務が自主防災組織の活性化や防災人材育成などをしていました。今は、防災対策部の災害対策課で県の総合防災訓練を主に担当しています。
 多賀城市の派遣では、避難所運営の応援として市総合体育館に1週間ほど行かせていただきましたけれども、その前も現地支援調整員として1回、宮城県の災害対策本部にも行かせていただきましたし、発災直後には県の先遣隊として緊急支援物資の輸送及び現地調査のため、山元町に行かせていただきました。

発災時の対応

(聞き手)
 地震が発生してから時系列的にお話を頂ければと思います。

(木谷様)
 発災当時は、県庁の仕事でイベントを行っておりました。翌月4月の下旬に知事選と県議選、統一地方選挙があり、そのための「明るい選挙推進大会」という大会を県庁の講堂でやっておりました。3時くらいに終わる予定で、本当に終わりかけの時に、県庁講堂の音響や照明を管理する2階の部屋におり、そこが凄く揺れていた感じでした。大会が終わり、後片付けをしてきて職場に戻った時に、みんながテレビを見ておりました。市町行財政室は、直接防災対策関係をやっている部署ではありませんでしたので、そこからはもう普通に仕事をしました。先ほどお話した兼務となるまでは、特段、業務的には関わりがありませんでした。5月になってからは、市町職員の派遣の調整をやるようになりました。

(伊藤様)
 私は、ちょうど防災啓発のパンフレットが納品されていまして、それを業者から受け取って倉庫に入れている時だったので、そんなに揺れは感じなかったです。その後、県の緊急メールで津波警報が出たことを知り、津波注意報が発令されたら防災対策部として準備体制を取る事になっておりましたので、県庁に急いで戻りました。
 防災対策部としては、まずは情報収集を行い、三重県にどのくらいの影響があるか気象庁などから情報収集しました。その後、沿岸市町がどのような体制を取っているのか、避難指示・避難勧告の発表状況の確認などを行いました。

(聞き手)
 2010年のチリ津波で三重県にも津波到来するという情報がありましたが、その時の津波の対応というのはどうだったでしょうか。

(伊藤様)
 三重県としては津波警報が出ていましたので、各市町に対して万全な体制取ってほしいとか、避難勧告や避難指示を出したらどうか等、災害対策本部を設置し、対応にあたりました。テレビで海岸線に人が映っているのが見えたら「あの人を避難させてくれ」とか、そのような感じでした。

(聞き手)
 東日本大震災の起きた時の状況の初期の印象というのはどうでしたでしょうか。

(木谷様)
 最初職場に戻って、ヘリコプターとかから見た津波が「うわーっと来る」映像はもう既に、夕方までには流れていたと思います。あれを見て、何というか、現実にそれが起こっている事なのか、みたいな事は感じました。月並みと言うのも変ですが、これはえらい事が起こったという圧倒される感じでした。

(伊藤様)
 三重県の場合、津波が来て堤防を越えるとかそういった事もありませんでした。養殖施設など水産業への被害は大きかったのですが、人命に関わる被害はありませんでした。しかしテレビの映像を見て、想像を超える状況に絶句しました。

情報収集を担当する連絡調査員の効果

(聞き手)
 多賀城市でどのような活動をされたのか、概略をお話頂ければと思います。

(木谷様)
 三重県は、当時、現地へ連絡調整員を常駐として2名くらい派遣しており、現地でどのような支援が必要かという情報収集をしている中で、宮城県庁の市町村担当課の方から、多賀城市へ職員の派遣をお願いできないかという話を聞きました。その派遣が、避難所運営の業務で20人の要望でした。その後、県と市町で20人を派遣することとなりました。県の職員をどう出すかというのは、県の人事課で仕切ることとなり、市町職員の調整は、市町行財政課で担当してという話になりました。その時の担当が私に割り当てられ、県内市町は29ありますので、どこの市町の職員に行ってもらうのか、いつから行くのかとか、いろいろ細かい条件とか、全然何も分からない状況でした。とりあえず県市町で20人という話がきましたので、どのような内容の支援をするのかというのを多賀城市から聞き、まずどこの市町に行ってもらうかという調整をしました。それと同時に、行ってもらう人に対しては情報提供しなくてはいけないので、行ってもらう市町が複数に渡ることから、それぞれの市町で多賀城市に尋ねて確認するのは非効率になるため、共通する事項は県で確認し、それを市町に対して情報提供することとしました。
 良かった点として、連絡調整員を置いていたので、派遣要員が欲しいという話は、スムーズに連絡調整員に入った事、すぐに三重県の本庁へ情報を伝えられた事、すぐにそれが知事などにも上がり、その都度、できるだけ協力をするようにとの指示がありましたので、スムーズに行うことができました。
 全国の市町村職員が被災地の団体を支援する仕組みというのがあり、3月には、総務省と全国市長会と全国町村会が協力し合って、仕組みを立ち上げていました。ただ、支援の要請ルートというのが必ずしも統一されていなく、例えば、友好都市関係では、個別に話が行われていました。また、保健師のつながりでの支援要請もあったと聞いています。要するに、支援要請のルートは様々で、三重県の市町でも、いろいろなところから既に支援要請が来ているという話を聞くと、統一されていないという感じを受けました。

(伊藤様)
 私は、避難所の支援要員でした。避難所である多賀城市総合体育館には、6月23日から30日までの期間で応援に入りました。当時、私が行った時にちょうど奈良県が引き上げる時だと思いますが、愛知県・岐阜県・三重県の3県で業務を割り振りしまして、三重県は食料と物資管理をしておりました。
 支援業務は、業務柄、市町で行う避難所の開設訓練や運営訓練を携わっておりましたので、ある程度の知識はありました。しかし、実際の避難所に自分が行って本当に役に立つのかなという、ほんとに漠然とした不安がありました。

県と市町の派遣対応時の混乱と今後の課題

(聞き手)
 今回の応援活動の中で、うまくいった事とうまくいかなかった事というのをお教えください。

(木谷様)
 私達は、ノウハウがある訳ではない中で、その多賀城市からの派遣要請に何とか応えられるように派遣調整をさせてもらいました。派遣人数や期間など、結果的に派遣要請に応えられたことはよかったのですけど、ノウハウもないし不慣れな中でやっていたもので、細かい点ではいろいろとありました。実際に派遣される職員に対してどういう事をするのかを事前に情報として十分に提供できなかったというのもありますし、派遣職員の交替に伴う引き継ぎの段取りまではほとんど配慮ができなかったので、取りあえず人を送り込むような感じでした。それで実際に行った職員にお任せみたいな形になってしまった感はあります。緊急事態だからやむを得ないところはありましたけど、もう少しきっちり体制を整えればより良かったのかなとは思います。やはりさっきも言ったように、支援の要請がいろいろな経路から届くので、その辺の混乱というのが市町にはありました。基本は、総務省や全国市長会・全国町村会が築いたスキームがあったので、それに沿うかたちではありますが、支援を行う側の都道府県の市町村担当課というのはそのスキームに入っていません。ですが、私達のような立場で派遣要請に応えることもありましたので、県内の市町にとっては多少の混乱もあるわけです。全国市町会・全国町村会というのは全国組織ですけど、それぞれ都道府県に三重県市町会・三重県町村会というのもありますので、私達はそことは情報を交換しあいながら一緒にやっていました。けれども実際に派遣職員の段取りについてやり取りするのは各市町の人事課の人で、その人達もそこまでしっかり把握できてはいなかったということもありました。うまく理解してもらうところまで説明が行き届いていなかった部分はあります。それと、県と市町と合同で派遣するかたちになると、どうしても「県」が表に出るというところがあります。市町からも職員を出して頑張ってもらっているのに、報道などでは、「県」が表に出がちになるところがあります。最初の派遣をやりますという時にはやはり、知事が報道で喋る形になるので、「ああ、県がやるのか」という印象に受け止められるようなところはあるかもしれません。
 派遣される職員の現地での服装については、三重県隊で統一した訳ではなくて、三重県は三重県、市町は市町の対応だったと思います。
 三重県内の各市町が一所懸命に活動されているのに、報道が偏ってしまうこともあるので、今後は、報道への情報提供の方法なども改善できるように努力しないといけないと思います。

安定期から閉鎖までの避難所運営の仕方

(聞き手)
 伊藤様が多賀城市に向かった時には、どのような作業をされたのですか。

(伊藤様)
 私が行った時は、もう完全に避難所としては安定期に入っておりましたので、問題が常に起きているという状態ではなかったです。実際に支援する業務も、三重県が担当していた配食物資というのが奈良県から引き継いだ業務で、どういった事をしなければいけない、というマニュアルを奈良県で作っていただいていました。それを随時更新しながら、作業するというかたちでした。
 課題として見えてきたのは、三重県では、発災してから3日間から1週間までの対応の避難所開設・運営訓練を行っておりましたが、今回のように2,3ヶ月後の対応まで想定してはおらず、訓練とは全然違っておりました。この他にも、課題の発見が多くありました。避難所運営では、県でも行政では無く、住民の方に極力運営してもらうという方針でした。しかし、実際の避難所へ行くと、運営に関わってくださるような住民の方というのは、結構早い段階で避難所から抜けて自分の力で元の生活に戻ろうと頑張られております。2,3ヶ月経った避難所というのは、避難所疲れなどもあり、住民が自発的に避難所を運営していく状況にはなっていない問題点もありました。避難所の立ち上げと運営ばかりを考えていましたけど、3ヶ月経ってくると避難住民も減ってきて、避難所を統合するとか避難所を閉めていくとか、避難された方々に他の場所に移ってもらうという時期に入ってきますので、そういう課題というのもこの時に初めて認識しました。
 住民の方とコミュニケーションについては、お年寄りの方で方言が少し聞き取りづらいということがありました。 また、避難所運営に不平を持ち、怒っているとか騒いでいるとか、あまりそういう印象はありませんでした。住民の方が、三重県や愛知県、岐阜県などにも助けに来てもらっているという認識でしたので、非常に温かく迎えていただきました。

避難所運営マニュアルへの経験の反映

(聞き手)
 今後、東日本大震災の経験を三重県でどう活かしていきたいと思いますか。

(伊藤様)
 三重県では、避難所運営マニュアルの策定指針を作成しており、それを基に各市町・地域に対して避難所ごとのマニュアルを作る支援の取り組みを進めているところで、東日本大震災が起こりました。東日本大震災では、例えば、「避難所運営では女性の視点が凄く大事」ということや「高齢者だけではなくて外国人の方など、広い範囲での要援護者の方をどのように対応していくのか」という課題が浮き彫りになってきました。それを踏まえて、避難所運営マニュアルを改善する必要性が出てきました。東日本大震災で経験した課題を部長以下幹部に報告し、情報共有した上で、現在マニュアルを改訂しております。

経験が活きた紀伊半島大水害時の対応

(聞き手)
 今回の災害派遣の経験が、実際に何かに活かされたことはありますか。

(木谷様)
 私の当時の所属部署では、どこかで大規模な災害が起こって支援が必要な時に、県内市町からの人的支援などを取りまとめるという役割がありました。東日本大震災以降、三重県でも紀伊半島大水害が起こり、その被災地に県内の市町の応援で入ってもらう事態が発生しました。その時に市町行財政課が各市町に声を掛けて派遣職員を出すという経験がそのまま活きた事例がありました。
 これらの経験は、書類でどのような事をやったということは残しており、ある意味、基本的なノウハウみたいなものはできたかと思います。

(聞き手)
 多賀城市の復旧・復興について思いを聞かせてください。

(木谷様)
 復旧・復興については、住民の方の意見をしっかりとお聞きする体制を整え、進めていく事が重要と考えます。

南海トラフでの地震を想定した対策

(聞き手)
 今回、この東日本大震災を経験して、全体の内容で構いませんので、経験して後世に伝えたい事や教訓などありましたら教えていただければと思います。

(木谷様)
「想定していなかった大規模の災害が起こり得る」、というのを目の当たりにしました。地球の歴史と人類の歴史を見た時に、人類が生きただけのスケールを考えると、私たちはわずかなところしか生きていなく、やはり計り知れない事が起こり得るという認識を持ち続けていく事、そして、次世代へ伝えていく必要があるのかなと思います。東北でも昔に、ここまで津波が来たという記録があるということを聞いたことがあります。そこは、やはり、人が歴史を積み重ねてきた経験・教訓の表れだと思いますので、できる限りそこはきっちり捉えて活かしていくのが大事と思います。

(伊藤様)
 発災後の3月17日に、最初に山元町に行かせていただきました。現地には、北陸を経由して山形から一般道で移動し、現地に入るまでに15時間くらいかかりました。夜3,4時くらいに山元町役場の方に到着し、光が何もない真っ暗な状態でした。それで明るくなったら沿岸の方が全部、何も無くなっていて、その衝撃は凄まじいものでした。もし、南海トラフでの地震が発生したら三重県がこうなるかもしれないと感じました。三重県で同じ規模の津波が起きた時に、いかに被害を少しでも小さくするのかが県としての課題にはなります。東日本大震災から1年くらいは、住民の意識も物凄く高く、防災に全く関心のなかった人まで県に問い合わせをいただきました。議会については、質問の9割以上が防災の事だったのが、震災から2,3年が経つと、意識は震災が起きる前に近いくらいまで沈静化しているように思います。いかに意識が高いまま、住民の方に対策を取ってもらうかというのが大きな課題です。また、想定外という事態を無くすという観点で、大きな被害想定を出すと、それを見た高齢者の方などが避難を諦める事などが起きてしまう可能性があり、県の立ち位置も非常に難しいところです。東日本大震災以降は、県としても津波対策に本当に集中して対応しています。

実際の情報経路やマニュアルを参考にしたい

(聞き手)
 震災を経験した多賀城市から学びたいことがありましたらお教えください。

(木谷様)
 職員派遣については、今度は三重県が被災地になる可能性もあり、その時はある程度全国から助けていただくような立場になると思われます。さまざまな自治体から職員を受け入れるノウハウの情報共有ができればと思います。

(伊藤様)
 私は、災害対策課の業務で訓練を担当しており、災害対策本部の図上訓練を毎年3回実施しています。今困っている事が、実際の災害時における情報の流れがどのような経路で行われるかという事です。
 現在行っている図上訓練は、ロールプレイング方式で、フェイズごとに行っております。例えば、発災直後であれば、市やさまざまな所から県の災害対策本部にランダムに情報が入り、その対応を決めて図上で動く流れとなっております。一例として、災害対策本部の情報班に県の地方部から市町の情報が入り、そこから関係する各班に情報を与えて対応してというかたちで訓練をしています。しかしながら、発災当初の混乱している時に地方部に市町の情報がどの程度入ってくるのかなど、不明な部分があります。また、救助要請などは市や県を通さずに、救助機関に直接入ってくるなども考えられます。
 この訓練をより現実的な訓練にするためには、実際の災害では、どのような種類の情報がどのような経路で市の災害対策本部に入り、市から県に対してどのようなルートで情報が出ているか知りたいです。多賀城市は、発災当時どうだったのか、宮城県庁にどのフェイズでどのような情報を出して、どのようなやり取りしていたかも気になります。また、市町村から県に対して、間違いなく要請は上がると思いますが、当初は想定していなかったような要請などもあると思います。自分のところでやるつもりだったけれども、県に頼まなくてはいけなくなったとかなど、どういった事例があるのかも知りたいです。
 あと、実際に使われたマニュアルの情報が知りたいと思います。私が応援に行った避難所でも、基本になったのは市で作成された薄いマニュアルで、それを実際に作業している人が付け加え、どんどん具体的な詳細の物ができ上がっていきました。市の災害対策本部や避難所などで、直しながら使っていたマニュアルやノウハウ集があると、県や市でマニュアル改訂や見直し案を作る際に、大いに参考になるのではないかなと思います。
 また、発災直後は、結構イメージし易いので対応マニュアルはある程度想定して作ることはできると思いますが、ある程度の時間が経った復旧・復興期は、想定が多岐にわたるし、場面ごとの対応がより個別化するなど、実際に経験してこそ把握できる災害特有の業務があると思いますので、それらのマニュアルもあるといいと思います。

(聞き手)
 長い時間ありがとうございました。